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柄谷行人は、マルクスの価値形態論から、世界を読み解く万能の理論を生み出した。その理論はニーチェ、ソシュール、フロイト、ヘーゲル等の思想、哲学のみならず、幾何学や集合論などの数理論によっても濾過された、いわば裸形の理論である。わたしはその裸形の理論を柄谷行人の原理論と名づけ、この理論が、混沌とした世界を読み解く万能の理論たりうることを直感した。本書はその検証報告書である。

均質空間の発見と時間の階層化

ヘーゲルはフロイトに先だって、狂気から理性へといたる段階を階層体系としてとらえたのであるが、低レベル段階でこの階層体系から自律、独立したものを病気とみなしたという。つまり病気はここで時間的な流れから独立して、「理性」という超越的なもの=形而上学を前提にしてとりだされたのである。さらに言いかえると、「理性」を頂点においた超越的な価値体系が「均質空間」を生み出したのであるが、この「均質空間」=価値体系の中では、「理性」を基準にして全ての価値判断がなされることになる。狂気という病も、「理性」との対比の中で発見されたものであった。 柄谷はそれを簡潔に証明しているのだが、この証明の意味するところは、フロイトの歴史的発見とみなされている「深層」も、ヘーゲル主義という形而上学にはまる危険性のあることへの警告にほかならない。そしてそれはいうまでもなく、「知の遠近法」批判の一つでもあった。しかし柄谷は、ここにとどまってはない。さらにその先までも見通している。たとえば、先にみたようなヘーゲル、フロイトのなした「空間」から「時間」への変換も、「『変換』自体よりも、それを可能にする基本的な遠近法的配置」こそが問題だという。ここでいう「遠近法的配置」とは、「いわば共時的な階層と通時的な階層が相互に変換しうる地平」のことである。なぜこれが問題なのかといえば、「現代の自然科学を支えているのは、いわば時空変換が可能であるかのような地平であり、厳密にいえばそのような遠近法的配置」だからである。これは、たとえばあらたな発見がなされると、その発見は進化論的発展史を強化、補強するものとしてその都度あらたに歴史にくりこまれ、歴史の階層構造化が一層強固なものになるという、現代の「遠近法的配置」を述べたものである。

100年前と現在をつなぐこうした人々の書籍は今でも気づきを与えてくれるものだ。ヘーゲルなどは難しくて読み解きにくいという弊害はあるが少しでも理解できたと感じることは学びになる。『精神現象学』とかはずいぶん前に買って何度も読む名著の中の一つだ。難しすぎて僕はこの本を読むための入門書を読むといったちょっと変わったアプローチをしなければならなかったが。

時空概念の反転

アリストテレスは「場所は事物を『包む』ものの内側の境界であり表面である」という。これは、まず場所があってそこに物があるという、わしたちが普通にもっている空間概念を一八〇度ひっくり返すものである。柄谷もこの転倒ゆえに着目したのである。そして彼は「アリストテレスの場所は物体以前に存在するものではなく、物体からあるいは物体の秩序と配置から生ずる」というベルグソンの読みをも併せて、次のような結論を導き出した。場所は、それゆえに、事物に先行するのではなく、事物の配置とともに生じる境界性あるいは差異性である。すでにいったように、場所は、客観的なものであるか主観的形式であるかというようなレベルで考えられない。もちろんわれわれはソシュールにならって、このような場所をランガージュとしてみることもできる。だが、そのためには、逆に、言語こそ場所においてみられなければならないだろう。事実、ソシュールが意味をシニフィアンとシニフィアンの差異に、すなわちあいだにみようとするとき、このあいだは空間ではなく、場所なのである。意味はそれから独立してあるのではなく、シニフィアンの形成する配置によって生じる。さきにのべたように、われわれが時間を空間的に考えているのだとすれば、アリストテレスはそれを場所的に考えている。すなわちそれが時クロノスである。すると、時が「前と後」の区別によってあるというばあい、それはある総合状態(体系)ともう一つの総合状態(体系)のすきまにあるのではないこと、時は長さをもつのではないことが明らかとなる。ソシュールが考えていたのは、おそらくそのような時なのである。時は差異化なのだ。

場所があってそこに物があるのかはたまた物があるから場所が認識されるのか?永遠に答えのでない卵が先か鶏が先かといった問いに似たモノがここにある。

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