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「弱者に優しい政治を」「差別のない明るい社会を」といった、だれも異議を唱えることのできないスローガン。しかし、現代社会における「弱者」とは、ほんとうはどういう存在なのだろうか?本書では、障害者、部落差別、マスコミの表現規制など、日常生活で体験するマイノリティの問題について、私たちが感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造を率直に解きおこしていく。だれもが担う固有の弱者性を自覚し、人と人との開かれた関係を築くための考え方を「実感から立ちのぼる言葉」で問う真摯な論考。

「言いにくさ」の由来

ダウン症児が生まれてくる確率が妊娠中に推定できる「出生前診断」という医療技術が徐々に浸透しつつある。これには血液検査(トリプルマーカー検査) によって推定できる方法と、羊水検査によって推定できる方法の二つがあるが、初めの方法は、第一次スクリーニングというべきもので、受検者は採血を受けるだけだから、ごく容易にできる。そのかわり、ダウン症児が生まれてくる確率が二九五分の一以上と出たとき「陽性」と診断されるという、まことにこころもとない検査である。現在、国内二社が請け負っており、一九九六年までに、二万数千人がこの検査を受けてきたと言われている。累積で二万数千人(現在では、当然もっと増えているが) という数字は、それだけ聞くと多いようだが、毎年の出生数が百数十万人であることを考えると、まだまだ一%にも満たない微々たるものだと言えよう。現在では、この検査の存在を妊婦に積極的に知らせる医師もいれば、検査に対する反対の立場から、知らせない医師もいる。第二の「羊水検査」では、ほとんど明確に染色体異常の有無が判明する。したがって、血液検査で「陽性」と診断された人は、「羊水検査」を受けるかどうかの決断を迫られるわけだが、大方の人が受ける決断をするそうだ。あるデータによると、「血液検査」で「陽性」と診断された人は約一五%で一二四四人、そのうち八割が「羊水検査」を受け、その結果、ダウン症と診断された人は二一人(羊水検査受検者の、約二%) で、全員が中絶しているということである(以上、数字は『朝日新聞』九七年十二月十六日付による)。この、「全員が中絶した」というところに注意しておきたいと思う。

誰しも生まれてくる子には健常であってほしいと願うだろう。もし自分のお腹の子供が障害を持っていることがわかったのなら、どうすべきか。ほとんどのケースで中絶が選択されるのだと言う事実はそれだけ障害を持った子を育てることの難しさを物語っている。若い母親や父親だと生まれてくる子を幸せにできるか不安と言うことだろう。

「弱者」聖化のカラクリ

「差別」は、異なる共同性どうしが接触するところで発現する。現象としては、個人から個人に向かっての感情表現としてあらわれることが多いが、その感情は、それぞれの個人が背負っている共同性によって作られたものであり、個人は、その共同性の異質さを根拠に感情をあらわにするのである。この場合、異なる共同性どうしが、何らかの理由で強弱関係におかれていることが、「差別」的な関係が生まれるための条件である。しかし「差別」をそもそも「差別」として、つまり、「よくない」関係のあり方として把握するためには、共同性どうしの間に強弱関係があるだけでは不十分である。差別を差別と捉える主体の側に、その強弱関係が不当なものであると感じる感情(近代的な平等感覚) が育っていなくてはならない。つまり、「差別」とは、異なる共同性の強弱関係を基盤としながら、しかもその関係についての既成の「観念」の枠組み(上下とか貴賤とか優劣などの) が、時代の進展とともに不当と感じられるようになった状態のことである。もちろん、現に不当と感じられるために、それらの「観念」の枠組みそのものは残っていなくてはならない。

差別と言うのは世の中の暗部だと思う。皆心の中では差別はいけないとわかっていても、実際にはそれにそぐわない行動を取ってしまいがち。障害者が街で難儀しているところを手助けするため手を差し伸べたりできるだろうか?僕自身も精神疾患で障害者であるが見た目でわかりズラいのでこのような経験はないのだが、手を差し伸べなければならないのではと思うこと自体も差別といっていいのかもしれない。障害者扱いされるのは気分のいいものではない。

弱いものいじめ

「弱いものいじめをしてはいけません」(でも、あいつ見てると、なんかいじめたくなってくるんだよな) 「人間の一個一個の命はみんな平等に尊い価値を持っています」(そうかなあ。おれが死んでもほとんど話題にならないけど、有名人が死ねばトップニュースだぜ。やっぱり命の軽重ってあると思うよ)表向き「正しい」とされる倫理命題が提示されると、必ず、それをそのまま鵜呑みにはできないという感覚が一方につきまとう。よほどおめでたい人でない限り、右の( ) のなかのように、声にはならない声がどこかで響いてくるのを聴かないですませることはむずかしい。しかし( ) のなかのような懐疑的な言い分を持ち出したくなるのも、初めの命題がまちがっているからではない。子どもの弱いものいじめの現場に接したとき、まともな大人ならば、だれでも「やめなさいよ」と介入しようとするだろうし、 無辜 の民衆を殺そうとする圧力に直面したら、やはり、平等な生命尊重の原理を柱にしてこれに抵抗すべきだと考えるだろう。だがそういう命題の抽象性をそのまま絶対化させるとき、それだけでこの世を処するわけにはいかないという実感もまた、同時にわき起こってくる。

世の中の弱者と呼ばれる人たちにスポットライトを当て皆がそのような弱者とどう関わっていけばいいのかと言う問題を掘り下げた書籍。表向きの偽善っぽい行動とその裏に潜む感情を紐解く。