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世界を騒がせた、理化学研究所のSTAP細胞事件。この背後には、日本の歪んだ科学行政があった。半世紀にわたり国際的な研究活動を続け、今も現役研究者として活躍する生理学者である著者は、この出来事を、わが国の生命科学の惨状を是正する機会と捉え、筆を執った。外圧によってもたらされた、分子生物学・再生医療分野の盛況と、潤沢すぎる研究資金。大学の独立行政法人化により伝統と研究の自由を蹂躙され、政府・産業界の使用人と化した大学研究者たち。学術雑誌の正体と商業主義……など、研究者を論文捏造に走らせる原因の数々を、筆者ならではの視点から、科学史を交えつつ鋭く指摘する。研究者の自由を取り戻し、論文捏造を根絶するための提言も行なう。

理化学研究所STAP細胞事件とは

理化学研究所の小保方研究ユニットリーダーの論文不正をめぐる事件とその経過を、筆者の意見を交えつつふりかえってみたい。当初、医学・生物学史上の金字塔とまで 讃えられ、はなばなしく理研から発表された彼女の独創的な万能細胞(STAP細胞) の発見であったが、彼女を筆頭著者として『ネイチャー』誌に報告された万能細胞の真偽に疑問が寄せられると、共著者としてこの論文に名を連ねた研究者たちが、あたかも軍隊の敵前逃亡を思わせるように、論文の撤回を主張しはじめたのである。その後理研ではやばやと立ち上げられたSTAP細胞論文の調査委員会の迷走ぶりは、わが国の一般国民の、科学および科学者に対する信頼を失墜させ続けており、さらにこの問題が訴訟問題に発展すれば、何年にもわたる泥沼のような不毛の論争が行なわれ、科学者の研究の信頼性は崩壊の一途をたどる恐れがある。

「STAP細胞はあります!」と最後まで主張し続けた小保方氏。結局再現性がないことと捏造によりうやむやにされてしまったが、本人は自分ならSTAP細胞を作れるし他の人が作れないのはコツがあるからだという。そう言われてしまえば元も子もないのだが。当初、理研の派手なSTAP細胞発見の成果公表には、明らかに、京都大学の山中伸弥氏のiPS細胞に対する対抗意識が働いていたと考えられる。だから、他の研究員たちでSTAP細胞が万人に再現可能か検証もせずに華々しく『ネイチャー』誌に報告したわけだ。これは小保方氏だけの問題ではなく、理研の点数稼ぎのための、勇み足だったとも考えられる。

研究者はなぜ、データを捏造するのか

これまで説明したのは、多額の期限付きの研究費を運よく受領することのできた研究者が、期限内に目立った業績を上げるための焦りに起因する、「論文の改ざんあるいは捏造」である。しかし大学の研究者は、このような切羽詰まった状況に追い込まれなくても、常にインパクトファクターの高い雑誌に論文を出し続けなければ、同年輩の競争者たちとの、よい地位への昇進を賭けての競争から脱落してしまう恐れを感じ、焦っているのである。この焦りからは、学問の本来の姿である、「研究の目標を高いところに置き、これに向かって着実に迫ってゆく」という研究姿勢は生まれようがない。わが国の大学の昇任人事は、候補者が過去に出版した論文のインパクトファクターの総数を最優先する、という国際的にも例のない異常なものである。さらにこのインパクトファクターの計算法が、機械的かつ不合理極まるものなのである。

インパクトファクターという言葉は某ドラマで世間一般的に認知されるようになった言葉だ。論文を書いたら、より点数の高い『ネイチャー』や『サイエンス』誌に載ることを目指す。医療業界内で幅を利かすには、よりインパクトファクターを稼ぐことが重要になってきており、患者そっちのけの感が否めない。

科学史上に残る論文捏造

現在の分子遺伝学隆盛の基礎となる「遺伝の法則」の発見者、メンデルは、周知のように、聖職者としての修道院勤務の余暇に、エンドウの栽培、交雑実験を行なった。実験対象として生物は、物理学、化学の実験対象である物質と比較して桁違いに複雑であり、エンドウの実験からいきなり数式的に表される遺伝の法則を導き出したメンデルの天才には驚嘆の他はない。メンデルはまず、エンドウを自家受粉させて代を重ねても、その形質が変わらないことを確認してから、七つの異なる形質を選んで交雑を行なった。この七つの形質が、現在の知見ではエンドウの染色体上で互いに十分離れた位置にあったことが、彼にとって幸運であった。この幸運に当たる確率は一パーセントに過ぎない。なお、メンデルの死後三十年、埋もれていたメンデルの研究が再発見され、これに続く染色体の発見、細胞の減数分裂の発見、染色体上の遺伝子の発見などにより、メンデルの法則は完璧に証明され、疑問の余地はなくなった。しかし、メンデルが実験的に発見した一代目交雑種の形質の出現比率、三対一が、あまりにも理論値とよく一致するので、ある 詮索 好きな数学者が、メンデルの実験データは改ざんされていると主張し、これに対する反論も出されてしばらく論争が続いた。しかし大部分の遺伝学者は、この論争を無視した。メンデルの法則の正しさには疑問の余地がなかったからである。たとえ改ざんがあったとしても、それはエンドウの飼育人がメンデルに迎合するために行なったのであろうと結論され、論争にけりがついた。

科学史上、捏造や改ざんは連綿と行われてきた経緯がある。世界的に有名な学者による捏造や改ざんも散見される。そこにはインパクトファクターが付与される科学誌の商業主義や、日本の歪んだ科学行政が原因として鎮座する。そんな捏造や改ざんを助長するような体制に異を唱える書籍。