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近年、教育の議論は過熱化している。無償化や学力低下など、その論点も多様だ。だが、そもそも公教育とは何のためにあるのだろうか? 本書は、その役割について、民主主義社会の成立や経済的意義などの観点から解説していく。

教育は投資した本人のみにメリットを与えるものではない

教育は、投資した本人のみにメリットをもたらすわけではない。より高いスキルによって生産されるものは、社会的にも価値を生む。結果的にそれらは高く取引され、めぐりめぐって社会全体の富を増やすことにつながる。そうして社会全体が豊かになる。政府にとって、学校などの教育システムの維持は一時的なコストとなる。しかし、それは将来社会に対する投資とみなすことも可能だ。つまり、教育への投資は将来世代を育成し、彼ら彼女らが活躍すれば社会的な利益となって還元される。教育を受ける者の多くは若者で、ハイレベルの教育を受けた若者を増やし、社会保険料が納められ、政府の運営や社会保障制度の維持に貢献する。

また教育には副次的に、道徳的な規範意識を高めたり、健康に気を使うようになれば、治安維持や医療に対する政府の金銭的コストを減らすことにもつながる。人々の意識は教育にとって高められる。結果生活は安定し文化的で民主義的な社会が醸成される。教育は投資した本人以外にも利益をもたらす。これを経済学でいう。正の外部性である。これこそ社会が教育費を負担する、つまり教育に税金を投入する意義である。

家族の自律性と学校教育との関係

一部の豊かな家族は、子どもの社会化のために多くのリソースやツールを提供できる。一方で、そのようなリソースやツールを提供できない家族もある。それは、経済格差や不平等の問題として捉えられる問題だ。だから、子どもの社会化にとって家族が重要な機能を果たした時代には、貧困や格差は社会的に解決すべき問題とされていた。しかし社会が一定程度豊かになり、自律した家族の自由な選択、という見方が社会的に優勢となる。そのもとでは、画一的に提供される学校教育は、むしろ自由な選択の妨げとなる。ところが、もし貧しい子の教育に重点を置こうとすると、富裕層の親や子供はますます学校教育に不満を抱く。以前は決められたプログラムを履行していればよかった学校も、それでは済まなくなり、ある程度多様性に配慮する必要が出てくる。多様性への配慮といっても、学校教育に投じられている資源には限りはあるので、皆が満足するような学校教育を提供するのは以前より難しくなる。必然的に学校教育のあちこちで不具合が生じる。それは、教育機関としての学校の正当性を揺るがすことになる。

多様性が叫ばれるようになって子供を持つ親にも変化が。少数ながらも学校に通わせずに好きなことを勉強させ高度な知識教育を与える親が欧米では出始めている。子供に何を学ばせるか、何に興味を持って取り組むかは親御さんにとって悩みのタネだろう。学校教育に弾かれた劣等生でも、自身の興味にそって知識を蓄積し成功する事例も散見する。学校がそういった取りこぼしのない教育を与えられれば良いが、やはり多様性とはトレードオフになっているのが現状。すべての子どもたちが自分の興味の範囲を広げることができるような教育にはまだまだ時間がかかりそうだ。

世の中には色々な職業がある、おもしろ動画を作るセンスがあればユーチューバー、ゲームが得意な子にはeスポーツなどという職業まで出てきている。僕がゲーセンで働いていた頃は、賞金などはなかったが、現在では世界中で賞金のかかったゲームの大会が行われている。個人からチーム競技まで多彩な大会が、国内でもその盛り上がりに水を差すような景品表示法があって賞金は低く設定しなければならないが、これからeスポーツが普及してゆけばそれも法改正されてゆくことだろう。

エビデンスと学校現場の関係

学校教育は、人間的な営みである。だからこそ、実践としては個別性や多様性に配慮しなければならない。そのような多様性を考慮するからこそ、教育は公共性をもつのだ。統計的エビデンスは多数派の傾向なのだから、そのエビデンスに無条件に従って教育実践を行うだけなら、教師は単にマニュアルをこなす教育マシーンになってしまう。そこでは、教師として専門性や力量は関係ない。統計分析は、社会的なマイノリティを扱う分析に必ずしも強くない。ケース数が集まらないと、どうしても推定の誤差が大きくなってしまうので、信頼性のある結果が得られないからだ。

教育現場では多様な個性を持った子どもたちがいる。だから教育実践を行うものが、統計的エビデンスばかりを気にして、生徒の個性を鑑みなければ、統計データの活用が有害にもなりかなないのだ。

世の中には多種多様な職業があり、現在では10年前では考えられなかった職業も生まれてきている。子どもたちへの教育も多様化していくべきであり、紋切り型では子どもたちや社会のニーズに対応しきれない。社会的マイノリティもすくい上げる能力が学校教育の現場には必要で、子どもたちに寄り添った個別で細やかな指導が行える人材を育成する必要がある。